
EPISODE 01
私のいしずえ
河端 豊
昭和23年4月、新制高校通信制課程創設。
日本、太平洋戦争敗戦。教育界に六三三四制が布かれた。それまでは小学校を出ると旧制中学五年制。それが三年制の義務教育新制中学に。旧制中学は新制高校と変わった。そして大学進学となる。
高松は焼け野原がつづいていた。
昭和20年7月4日未明、高松大空襲。高松市は市内の83%を消失。旧制高松中学も戦火に遭い、跡形もなく丸焼け。校庭を囲んでいた石垣だけが残っていた。
戦争が終り、旧制高松中学にバラックの校舎。本館二階建が一棟、その北側に平屋の校舎が二棟建った。窓ガラスには盗難よけに「高中」と白いペンキが書かれていた。
高中と県女が合併し、高松高校となる。旧高中は、県女の戦災をまぬがれた校舎に移った。
私が高高に通信教育部があることを知ったのは、昭和24年だった。
二番丁中学(現紫雲中学)の二年生だった。二番丁中学は空いた旧高中北棟二棟に間借りしていた。
高中の広い運動場。石垣の周りは雑草が覆い茂っていた。先生とともに校庭清掃。ふと目にしたバラックの南側、本館玄関に大きな板の立て看板。
『香川県立高松高等学校』そして、その隣に『香川県立高松高等学校通信教育部』と並んで張りつけていたのを、いまでもはっきりと覚えている。当時の中学担任の先生が通信教育部を指さし、これは昼の学校にも夜の学校にも行けない子のための学校だと説明された。まさか、よもや私がその通信教育に学ぶとは思わなかった。いまはその跡地は高松工芸高校に。
私は中学時代、結核性カリエスを患い登校欠席が続き、中学三年時の三学期は通えなかった。中学の先生が高高に通信教育があることを知っていて、その薦めすすめで入ったと思う。しかし、勉強は病勢悪化でしていなかった。
昭和27年。脚の痛みをもちながら、コルセットを外し、ようよう行った。旧県女、正面二階の作法室。百人ほど来ている生徒に、事務を担当していられた太田よしのさんが、甲斐甲斐しく教科書を渡しておられた。若い大島久俊先生(のちの高高校長)が、通信教育誕生から現在の状況を順々と話され、国語・数学・社会・理科・英語と各科の先生を紹介。折りから正午を知らす市役所屋上からのサイレンが鳴り、中断。静粛になったところで大島先生は、本校でいくら成績が良くても、文部省は通信教育の85単位中28単位しか単位として認めてくれない。あとの57単位は、文部省の大学入学資格検定試験(大検)を受けなくてはならないとおっしゃった。まさに至難のわざに教室は、ため息と、うなりの声が出る。
私の脚はもう一歩も歩けなくなり、高高近くの戦後のバラック建ての外科病院に入院。左脚股関節を氷嚢ひょうのうで冷やし、牽引けんいん台に乗せられ固定。脚は分銅で引っぱられていた。来る日も来る日も仰臥ぎょうがの日々。かっての中学時代の友が高校へと通うのを見ていることしかできなかった。学校へ行けば理解が深まるのにと。
私は画板を胸の上に置き、首からひもをかけ、わが机とし、レポートを書いた。なかなか進まない。誰か教えてくれる人はいないか。幾度も幾度も辞書を引く。
独学の 辞書引く夜の すきま風
寝たきりの仰向け姿でレポートを書くものだから、字も大きく、各科目報告用紙規定3枚分に足りない。当時のくすり紙は折り紙の形だったので、それを正月の凧たこのように足してたして書いた。卒業できなくてもいい。高高で学んだことを誇りにしようと思いながら。
入退院を繰り返す長期の療養に朗報が入る。昭和30年4月、文部省は高校通信教育に修得可能85単位を認可。本校より待望の卒業生が出た。このときほど嬉しいことはなかった。この脚の痛みが軽減され、歩けるようになれば松葉杖をついてでも卒業生を訪ねてみよう。どのように勉強したか、卒業後の様子はなどと。また私は長期療養の病院に入った。そこに若い医師が週一回、岡山医大から通って来られた。先生のおかげで脚も、不自由ながら歩けるようになった。この先生は、のちに香川医大の学長になられた田辺正忠先生だった。「河端君、死線を越えて行こう。」と、面接授業に通わせてくれた。苦節十年。「とうとう来たか。」大島先生の涙が忘れられない。
森部正義さんがコーラスの指揮をしている。先生も生徒も歌っている。「北上夜曲」「北帰行」「山男の歌」「心はいつも夜明けだ」待望の面接授業。何か生き生きとして、学ぶ愉しさが心身に。そして、卒業生訪問を思いたった。運送会社社員、公務員、放送会社社員、県警職員、看護婦、海上保安船乗務員、幼稚園職員、国鉄職員。実に多種多様の職業に活躍している卒業生。この先輩訪問記が「高高通信」に掲載され、さらにNHKラジオ第二放送での放送が決まる。毎月第四金曜日午後八時四十分。小生朗読での放送となった。いつしか録音テープが増える。
縁は異なもの、私は大阪のAテレビ局に常勤採用となった。あと二年間の面接授業がある。まだ新幹線もなく、夜の船で通うことにした。テレビ局の土曜日はいちばん忙しい。翌日の日曜、月曜と二日分の編集を済ませて、当時航行していた関西汽船で通った。翌朝、高松着。
一日の面接授業を終え、また来週にと船に乗る。美しい夕陽は忘れられない。
昭和40年。高松高校、晴れて卒業。
しかし、この幸運もつかの間、結核の既往症ありでテレビ局指定医より勤務不許可。そして、ふるさと高松に帰った。気分が腐っていた。折りしも昭和42年、電電公社(現NTT)は、身障者採用を公表。入社試験を受け、四国での第一号採用となった。32歳。爾来じらい28年、定年まっとう。その後も関連の仕事などに恵まれつつ元気に現在84歳。高高通信OB会に出席できる喜びをいただく。あしかけ14年。高高通信の学びに感謝のこうべを捧げます。
生徒の才 伸ばす師あまた 年迎ふ